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認識力を拡大するために必要なこととは?2014.07.22 Tuesday
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NRTで言うところの「進化」とは、「認識力を拡大すること」とお伝えしてきました。
今回は、私自身の変化の体験を通して、「認識力の拡大」を考えてみたいと思います。
前回のコラム(苦しみが苦しみでなくなるとき)で、
「認識力の拡大とは、世界や人間について、深い洞察力を持って理解できるようになること」
とお伝えしました。
この「認識力の拡大」に必要なことの一つに、「認識力を狭めているものを解消すること」があげられます。
14年ほど前まで、私は今よりもずっと小心者で自信が無い人間でした。
その当時、漠然と独立してセミナートレーナーやセラピストといった職業に就けたらと思っていました。
しかし、興味はあるがそんなことができるとは思えなかったのです。
当時は自信が無かったということもあり、様々なセミナーに出席していました。
あるセラピストの講演にも行きました。
そのセラピストは独立して、サロンを開設してセラピーやカウンセリングを行っているとのことでした。
話を聞いて、私には夢のまた夢だと思いました。
セラピストとして独立したのみならず、サロンまで運営している…
「そんなこと、とても私にはできない…」と。
本当にそう思ったのです。
「サロンまで経営できるセラピストには絶対になれない」と感じていたのです。
実際に、私はセラピーもセミナーも下手だったのです。
それから、3年も経たない内に、セラピーやセミナーの業界で独立して、サロンを経営するよりもはるかに固定費がかかるビジネスを切り盛りするようになったのです。
今では2つの会社の代表をしていて、セラピストとしても名が知られるようになりました。
山崎さんはそんな短期間に何が変わったのですか? と尋ねられることも多いです。
私の変化の原因を突き詰めて考えていくと、「認識力の拡大」に集約されるのです。
では、私はどのようにして認識力が拡大していったのか?
それが、「認識力を狭めているものを解消すること」なのです。
今の私が、14年前の私を見たときに、まったく自分自身のことも、世界のことも解ってなかったということが解ります。
当時の私は、自分自身を過小評価していたのです。
「独立して、事業を起こすことなんできない」
「自分には、セミナートレーナーとして、セラピストとしての才能がない」など。
「何もできない自分」を信じていたのです。
その他にも、恐れや不安がたくさんありました。
何が自信の無さや不安を作り出していたのか?
このコラムを定期的に読んでくださっている方には、お分かりかと思います。
自分自身を制限する観念、思い込みがたくさんあり、自分自身と世界を見えなくしていたのです。
これが、認識力を狭めていたのです。
現在私は、セミナー(研修)、セラピー、コーチング、本の執筆などを行っています。
最も得意なものを一つだけあげてくださいと言われれば、セラピーと答えます。
クライアントに少しお話しを聞いただけで、何が問題で、どのように解消すればいいかが解るのです。
方法なんて意識したことはありません。
ただ、そういう根本的な理解力が備わっているとしか言いようがないのです。
このような理解力は、13年前に独立してから開花していきました。
開花したということは、種があったということです。
しかし、観念(思い込み)という分厚い箱の中に閉じ込められている内は、種があるなんて気付けなかったのです。
私はかつて「自分は人の気持ちを理解する力が弱い」と信じていました。
独立する前は、他者からもそのように言われることがありました。
この観念(思い込み)越しに自分を見たときに、どんな自分だと思えるのでしょう?
この観念(思い込み)越しにクライアントを見た時に、どのように見えるのでしょう?
とてもじゃないけど、対人支援の仕事ができるとは思えないでしょう。
このように思い込んでいる自分が、本来の能力を発揮できるわけがありません。
それにより苦しい思いをしていたのですが、後になって、「能力を発揮できない自分を望んでいた」ということに気づいたのです。
そのため、「自分は人の気持ちを理解する力が弱い」という観念にしがみついていたのです。
人間を極度に恐れていたからです。
おかしなもので、セラピーがしたい(人間と深く関わっていきたい)と思っていたと同時に、人間を極度に恐れていたのです。
このコラムでも紹介してきましたが、人間には相反する性質(光と影)があるのです。
「成功したい」と思っていると同時に、「有名になりたくない」といった相反する思いがあることに気づかれている方もいるでしょう。
さて、「私は人間を極度に恐れていた」と書きました。
そんな私にとって、「自分は人の気持ちを理解する力が弱い」という観念は安全・安心をもたらします。
これを信じることによって、人と深く関わらなくて済むからです。
そもそもこのような観念を持つと、対人支援なんて私には無理と、あきらめの気持ちになりますね。
その結果、信じている通りに、クライアントのことも解らないし、セラピーもとても難しく感じられたのです。
ただし、実際には「自分は人と繋がるのが苦手」と信じていたに過ぎなかったのです。
私は、私が信じている通りになっていたのです。
自分で自分の認識力を狭めていたということになるのです。
これまで、セラピーや能力開発のトレーナーとして、大勢の方々に関わってきました。
皆様おのおのの分野で「夢を実現したい」「成功したい」と願っていました。
しかし、皆様、真逆な自己イメージも持ち合わせていたのです。
真逆な自分が変化しないように、頑なに自分を守っていたのです。
私のような対人支援や能力開発の分野で能力を発揮するには、知識やノウハウよりも、洞察力や直観力の方が重要です。
ビジネスで能力を発揮するのも同じだと思います。
型どおりにしか考えられない人が成功するとは思えません。
傑出した能力を発揮するには、斬新な発想を可能にする洞察力や視野の広さが必要なのではないでしょうか。
これらを可能にするのが「認識力の拡大」なのです。
そして、誰しもが、「広くて深い認識力」を持てるのです。
しかし、それを手に入れるということは、今あなたを守っている安全・安心のシステムを崩すことになるのです。
多くの人は、今の自分自身に何かを加えることによって、能力を高められると思っています。
そのために、様々なスクールに通うのではないでしょうか。
先ほど、私も独立する前は自信が無く、様々なセミナーに出席していたと書きました。
セミナーなどを受講することにより、新しいスキル(技術)を身に着けることはできます。
しかし、能力発揮の土台となる「認識力」が狭いままでは、大きな変化は望めません。
何かを加えることではなく、認識力を狭めているものを崩すことの方が、はるかに能力を拡大できるのです。
根底的な能力が開花するからです。
これが、「認識力の拡大」です。
人間は、多かれ少なかれ、今も世界や自分を見えなくさせているのです。
私自身、種(能力・才能)は元々あったけど、(自分自身を守るために)長らく見えなくなっていたように、
どなたにも種があるのです。
認識力を拡大した時に、それ(種)が使えるようになるのです。
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苦しみが苦しみでなくなるとき2014.06.18 Wednesday
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これまで何度か述べてきたことですが、NRTの目指すところを一つ述べるとしたら、「進化」ということが挙げられます。
もちろん「進化」という言葉もさまざまな捉え方ができます。
ただ、「様々な動物の違いの観察」「子供と大人の違いの観察」
また「聖者と呼ばれる人物とその他の人物の違い」を観察していくと見えてくるものがあります。
他方より進化していると言われる存在に共通している点は、「より認識力が高い点」にあるのではないでしょうか。
そこで、NRTでは進化を「認識力が拡大すること」と考えることにします。
ただ、進化もまた良いものでも悪いものでもありません。
どこかでお伝えすることになるかと思いますが、進化の反対の退化もまた必要なもので、これも悪いものではないからです。
進化だと思っているプロセスが、認識力を縮小しているということもあります。
逆に退化にしか見えないプロセスが、認識力を拡大することもあるのです。
ある段階では、むしろ人間を停滞させる力を深く理解しないと
認識力を拡大できなくなってくるのです。
よって、進化=善、退化=悪と捉えるのではなく、ここではあくまで「進化=認識力の拡大」とニュートラルに捉えていただければと思います。
今後のコラムをお読みいただくと、退化(悪)だと思っていたことが実は進化に必要なことだったと気づいていただけることもあるかと思います。
このような意味でも、認識力が拡大していくと、人間の苦しみを作り出している善悪の対立が減っていくのです。
さて、「認識力の拡大」とは何かと言いますと、世界や人間について、深い洞察力を持って理解できるようになることです。
広く深く外界(世界)と自分(内的世界)を理解できている状態です。
認識力が拡大していっている人を観察していて気づくことがあります。
その特徴の一つとして、感覚が鋭敏になっていっています。
この感覚は五感だけを意味するものではありません。
五感も鋭敏になることが多いのですが、それ以上に直観力や洞察力など計測し難い力が強くなります。
このような感覚(五感、直観力、洞察力)が鋭くなるからこそ、人間と社会について深く洞察できるようになるとも言えます。
逆に、こうです。
進化が止まる、退化の方向に進むようになると、感覚が麻痺してきます。
そうすると、世界や人間のことが、どんどん理解できなくなってきます。
それは意識がより鮮明になっていくか、どんよりしているかの違いに現れます。
簡潔に言うと、進化は、意識が鮮明になっていくプロセスであり、
退化は、意識が鈍感になっていくプロセスと言えましょう。
認識力が増す過程で、様々な変化が起こります。
そのうちの一つは、これまで苦しいと思っていたことが、苦しくなくなるということです。
認識力が増すと、自分が勝手に苦しみを創り出していると分かってきます。
「苦しい、と思い込んでいたにすぎない」と分かるようになるからですね。
そのことを、心から理解したときに初めて、その苦しみの外に出ることができるのです。
例えば、私たちは夜、夢をみます。
夢の中の出来事で、苦しみ続けることがあります。
しかし、目が覚めたときに「あぁ、夢だったのか」とラクになりますね。
夢の中での苦しみをそのまま引きずる人はいないでしょう。
なぜなら、それは幻想だったと気づくからです。
現実世界でも同じことが言えます。
日々起こる出来事に一喜一憂している人は、殆ど夢を見ている状態と変わらないのです。
認識力が低いから、それらが幻想にすぎないと分かりません。
幻想を、本物だと思い込んで苦しんでいるにすぎないのですが、認識力が増すと、そのカラクリが全部みえてくるのです。
認識力が増すということはそういうことで、今まで苦しいと思っていたことに、もう苦しまなくなるのです。
ならば、人生から苦しみが無くなるかというと、そうではありません。
今まで、狭い枠の中で苦しいと思っていたことに意識が集中していたので、その外側にある苦しみが見えてなかっただけです。
その外側に存在していた苦しみに繋がるようになるということは、今までの苦しみは手放せても、新たな苦しみと対峙することになるのです。
こうお伝えすると、どこまで行っても苦しみから解放されず、絶望的な気持ちを持つかもしれませんね。
そう、視野が狭いうちに、外側にあった苦しみと繋がってしまうと、絶望的に苦しいのです。
ただし、認識力が増すにつれて苦しみそのものの構造が見えるようになってきます。
より大きな苦しみを理解する力が備わってくるのです。
それにより、新たな苦しみが来ても、感じ方が幾分か変わってくるのです。
言葉にするのが難しいのですが、苦しみに対する新たな体験の仕方をするようになるのです。
認識力が拡大することにより、感覚が鋭敏になると書きました。
よって、進化すると五感は鋭敏になるので、ある意味ちょっとした課題でも、身体は反応しやすくなると言えます。
鈍感だったときには気づけなかったことにも気づけるようになるわけです。
それにより、ある意味「痛い」と思うことも増すのです。
しかし、認識力が拡大すると、同時に直観力、洞察力などの感覚も増すのでしたね。
その結果、
「身体は反応している、しかし、問題の全貌が見えているので、心は落ち着いている」
という状態になります。
「身体は反応している、しかし問題の全貌が見えているので、心は落ち着いている」
これは、体験してみないと理解しがたい感覚なのですが…
心が落ち着いているということは、感情やイメージなどによって、苦しみを増幅させることが少なくなるということを意味します。
これは決定的な救いとなります。
なぜなら、私たちが苦しむ時、出来事をありのままに受け取って苦しんでいるわけではないからです。
私たちは、不安や心配などから、小さな反応を何十倍にも増幅して苦しんでいるからです。
苦しみを作り出しているのは、事実ではなく、心の方なのです。
そして、視野が狭い時にだけ、苦しみを増幅させてしまうのです。
だから、認識力が拡大すると、身体的な反応は敏感になりますが、むしろ苦しみは減ることになります。
ありのままに身体が反応して、苦しみはすぐに終わっていくのです。
このコラムでは何度か、芋虫から蝶への変容を扱いましたね。
芋虫は蛹を経て、蝶になります。
芋虫であるうちは、芋虫ならではの苦しみがあります。
例えば、土の中にいる他の虫に食べられないかとか、すぐに捕獲されてしまうとか、ですよね。
では、蝶に進化したら、全く苦しみが無くなるかというと、そんなことはありません。
蝶は空を飛ぶから、人間の子供に捕まえられてしまうかもしれません。
蝶になったら、芋虫のときに無かった苦しみがあるのです。
しかし、蝶になったときに、もう芋虫に戻りたいと思うでしょうか?
たとえ私たちが夜、どんなに素晴らしい夢をみたとしても、二度と目覚めず、夢の中にいつづけたいと思う人はいないでしょう。
たとえ、現実社会がどれだけ苦しかったとしても、です。
幻想の中に生きるのは意味が無いと、分かっているからです。
認識力が狭いがゆえに、苦しいと思い込んでいるのは、夢を見ている状態に近いと言えます。
逆に、認識力が小さいがゆえに楽しく思えることもありますが、それも同様です。
夜みる夢がどんなに素晴らしくても、そこに戻りたいとは思わないように・・・。
認識力が狭いがゆえに楽しいと思ってたことがあったとしたら、
進化したときには全く意味が無いと分かってしまうので、もう戻りたいと思わなくなります。
認識力が拡大すると、以前問題だったことが問題ではなくなります。
同時に重要だと思っていたこと(例えば他者に承認されることなど)が重要ではなくなり、楽になります。
また、これまでとは違ったことが大切に思えるようになったりします。
それは、夢から醒めるような感覚です。
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「清らかに生きたい」と思えば思うほど、清らかさから遠ざかる2014.03.20 Thursday
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清らかに生きたい そう願う人を時折見かけます。
動機はさまざまです。
小さい時貧乏だったのがイヤで、お金持ちを目指す人も多いですが、その反面、お金を激しく憎む人もいます。
幼少期の体験から、お金そのものを汚いものだと決めつけ、真逆の生き方を目指そうとします。
他にも、お金を大事にする風潮に嫌気が指したとか、ストレスの多い毎日を過ごしたとき、精神世界の本を読むことで、精神性に惹かれる方も多いです。
その結果、スピリチュアル性(精神性)を重視した生き方(聖者のような生き方)に憧れたり、「清らかさ」や「悟り」などがとても大切なものになってしまう人も見受けられます。
スピリチュアル性(精神性)や悟りを強く求める方々を観察していて、気づくことがあります。
これらを探求されている方の中には「純粋性」が重要になりすぎている場合があるのです。
「純粋性」はNRTでは「ピュリティ」と表現していますね。
「純粋性(ピュリティ)」は良いものでも悪いものでもありません。
もちろん、これを大切なものと考えること自体も悪いことではないと思います。
しかし、あまりにも「純粋性(ピュリティ)」を大切なものにしてしまい、エゴ(自意識)を否定してしまっている人を見かけることがあります。
このような方々は「エゴ(自意識)」が「純粋性(ピュリティ)」の反対にあり、
対立するものだと考えているようです。
実は、このように考えると「純粋性(ピュリティ)」を深めることが難しくなるのです。
どういう意味か?
順を追って説明します。
まず、
『「エゴ(自意識)」と「純粋性(ピュリティ)」は対立するものなのか?』
この問いを洞察してみましょう。
深く洞察していくと、この2つ(「エゴ」と「ピュリティ」)は、
同じものの2つの表現だということが解ります。
なぜなら、ピュリティ(純粋性)はエゴによって作り出されるからです。
どういう意味でしょう?
本年1月31日に書いたコラム(価値観が安全安心欲求と結びつくと)で以下のように
書きました。
『人間はピュリティ(純粋)な状態で生まれてきますが、成長していく過程で、様々な観念(価値観)を身につけ、エゴ(自意識)を作っていく』
さらに、
本年2月21日に書いたコラム(この情報化社会で生きるために)では、以下のように書きました。少し長くなりますが引用します。
仮に、NRTワークショップの中で、
「添加物の多い食事は摂りたくない」という価値観をワークで扱う人ががいたとしたら、そこをじっくりと洞察していきます。
自分の中で、その価値観と対立する価値観は何なのか?
その価値観を支えている別の価値観があるとしたら、何なのか?
このようにじっくり深めていくと、本質的なことが観えてきます。
自身の核心に迫りながら、洞察を深めていくことで、
自分の内側で何が起こっていたのか?
なぜ、光と影に分けるのか? など、カラクリが観えてきます。
そこで、光と影がどんどん薄れてきます。
光と影が薄れて、価値判断なく物事を観れる状態が、NRTが提唱するピュリティで、純粋なエネルギーを発揮出来る状態です。
そして、人間の内部にある光と影の対立が終わり、内的な平和が訪れるのです。
上記の2つの引用をまとめますと、人間の進化には以下の3つの段階があることが解ります。
1.人間は純粋な状態(ピュリティ)で生まれる。
2.大人になる過程で様々な観念を身につける=エゴ(自意識)の成長。
→それにより様々な葛藤(光と影の対立)を体験するようになる。
3.光と影を洞察することにより、それが表裏の構造であることが理解できる。
→それにより葛藤が終わり、ピュリティ(純粋性)が実現できる。
上記の3つの段階を読んでいただいて疑問に思う人もいるかもしれません。
1も3もピュリティだからです。
同じ状態(ピュリティ)に戻っているだけだと思われる方もいるかもしれません。
しかし、1と3は同じ状態ではないのです。
それは、1と3を比べてみれば理解できます。
1は赤ちゃんです。赤ちゃんは、無知です。
しかし、無知だからこそ純粋無垢(ピュリティ)なのです。
何も知らないということは、一切観念をかぶせずに世界を見ることができます。
その結果、ありのままに(純粋に)世界と人間を見ることが出来るのです。
では、3はどうでしょうか?
3は無知ではありません。
葛藤を体験し、苦しんだ上で、それを乗り越え、光と影を理解した状態です。
ここで、もう一度、2月21日に書いたコラム(この情報化社会で生きるために)の後半をご覧ください。
自身の核心に迫りながら、洞察を深めていくことで、
自分の内側で何が起こっていたのか?
なぜ、光と影に分けるのか? など、カラクリが観えてきます。
そこで、光と影がどんどん薄れてきます。
光と影が薄れて、価値判断なく物事を観れる状態が、NRTが提唱するピュリティで、純粋なエネルギーを発揮出来る状態です。
そして、人間の内部にある光と影の対立が終わり、内的な平和が訪れるのです。
これは、葛藤を乗り越え、善悪をかぶせずに(価値判断なく)ありのままに、
世界と人間を観察している状態です。
まさしくピュリティ(純粋性)を実現している状態だということがわかるでしょう。
つまり3の状態とは、理解力が深まったからこそ実現した純粋性(ピュリティ)なのです。
「人生の中で起こる幾多の困難=対立(葛藤)」に立ち向かい、それらの本質を深く理解することによって達した境地なのです。
この状態(3の状態)は無知(1=赤ちゃん)の反対であることが解ります。
「理解」と「無知」は真逆だからです。
同じ純粋性(ピュリティ)でも、赤ちゃんと聖者は正反対の性質である、ということが解るでしょう。
聖者という存在がいたとすれば、3の状態が極まった存在であると言えるでしょう。
聖者も純粋性(ピュリティ)を体現した存在だと言われています。
しかし、それは赤子のようではないのです。
むしろあらゆる苦難を引き受け、それを乗り越えることによって限りなく理解力を高めた存在なのです。
つまり、森羅万象の全てを知った上で純粋(ピュリティ)なのです。
このように考えた時に、赤ちゃんは小さなピュリティで、聖者は巨大なピュリティだと言えるでしょう。
では、どのようにすれば、そのような深い洞察力と愛情を兼ねそろえた存在(巨大なピュリティ)になれるのでしょう?
それは、2(エゴ)の状態を通過することなのです。
以下にもう一度1→2→3のプロセスを掲載します。
1.人間は純粋な状態(ピュリティ)で生まれる。
2.大人になる過程で様々な観念を身につける=エゴ(自意識)の成長。
→それにより様々な葛藤(光と影の対立)を体験するようになる。
3.光と影を洞察することにより、それが表裏の構造であることが理解できる。
→それにより葛藤が終わり、ピュリティ(純粋性)が実現できる。
つまり、エゴ(自意識)を作り出し、それを理解することなしに3(大きなピュリティ)を実現することはできないのです
このプロセスは、文字通りエゴを解体することによって、大きなピュリティ(純粋性)が作り出されることを意味するのです。
つまりは、エゴという素材を使って、大きなピュリティ(純粋性)が作り出されるのです。
これは、芋虫(イモムシ)がサナギの中で自分自身(芋虫)を溶かして、その素材で蝶々を作ることに喩えることができます。
もちろん芋虫がエゴで、蝶々がピュリティを意味します。
蝶々(美しい存在)になるには、芋虫(醜い存在)を通過しなければならないのです。
逆に言うと、エゴがなければ大きな進化は実現できないとも言えるのです。
今回のコラムの冒頭で、
『深く洞察していくと、この2つ(「エゴ」と「ピュリティ」)は同じものの2つの表現だということが解ります』
と書きましたが、少しご理解いただけたのではないでしょうか。
このように洞察できた時に、はじめてエゴというものを理解しやすくなります。
逆に、エゴがピュリティの反対側にあるものだと思っている限り、気づかないうちに、
「エゴは悪で滅却しなければならないもの」だという観念を持ってしまいがちになります。
このような観念を持つと、エゴを否定することになります。
「否定」は「理解」の反対です。
その結果、エゴの理解が進まなくなるのです。
これが、冒頭でお伝えした、
『「エゴ(自意識)」が「純粋性(ピュリティ)」の反対にあり、
対立するものだと考えていると、「純粋性(ピュリティ)」を深めることが難しくなる』
ということの意味です。
エゴが邪悪なものだと忌み嫌っている限り、エゴの理解に関して及び腰になってしまうのです。
そして、これもすでにお伝えしましたが、
「清らかさ」「悟り」「純粋性(ピュリティ)」が大切になり過ぎた場合に、エゴが邪悪なものだという観念を持つに至るのです。
いかなる場合でも、光が生じる所に影が生じるのです。
深い理解とは、光と影の解消の結果もたらされます。
どんなに普遍的にすばらしいと感じているものでも、その気持ちが強くなる限り、その裏側に影が生じるのです。
その結果「深い理解」から遠ざかってしまうのです。
だから、
「清らかに生きたい(ピュリティを実現したい)」と思えば思うほど、清らかさ(ピュリティ)の実現が難しくなるのです。
このように、エゴの意義(重要性)が深く理解できるようになったら、嫌なものが激減します。
それにより、信じられないほど生きやすくなります。
根本的に善悪が減るからです。
そして、この境地こそがニュートラルな状態なのです。
さて、今回のコラムは理解しにくいと感じられた方も多かったかもしれません。
ただし、ここに洞察力を高める重要な鍵が隠されているのです。
よって、引き続きこのテーマを深めていきたいと思います。
また、今回のコラムを理解するのに、ここまで書いたコラムが役立ちます。
合わせてバックナンバーを繰り返し読んでいただければと思います。
ありがとうございました。
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この情報化社会で生きるために2014.02.21 Friday
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これまでお伝えした通り、人間の根底には、安全・安心欲求があります。
ですので、何が安心で、何が危険なのかを知ることが重要なのですね。
外側の世界で起こることを、内側にある安全安心の基準(価値基準)に照らし合わせて、「損・得」「良い悪い」「味方と敵」などに分けていきます。
つまり、光(の役割のもの)と影(の役割のもの)を、
殆ど意識することなく(無意識的に)振り分けて生きているのです。
「良い」というレッテルを貼ったものを見ると安心し、
「悪い」とレッテルを貼ったものを見ると脅威を感じます。
ここまででお分かりのように、1つの観念(価値観)は光と影の両方を作り出すのです。
例えば、食の安全が叫ばれている昨今、添加物に注意して食材を選ぶ方も多いでしょう。
「無添加の食事が身体にいい」
これがあまりにも重要な観念(価値観)になると、どうでしょうか?
無添加・自然農法などを標榜する食事を喜ぶ一方で、ジャンクフードを代表する、身体に悪いとされる食べ物を嫌悪するようになります。
このように、観念(価値観)が増えるごとに、光と影の両方が増すことになるのですが、意外とココに気づいいる人は少ないのです。
さらに、観念(価値観)は、情報量に応じて増える傾向にあります。
インターネットに代表する、近年の情報革命は、社会の複雑化をもたらしました。
現代人が1日に手に入れる情報量は、江戸時代に生きた人の一生分と言われています。
情報に付随して、日々、膨大な価値観とそれに伴う光と影をも取り込んでいるのが現代人です。
今後さらに、複雑化していく傾向にあるのは、火を見るよりも明らかなのではないでしょうか?
確かに、知識が増えることの恩恵はあります。
その一方で、大量に得た知識をただただ取り込むだけだと、どうなるでしょうか?
自分の中に、光と影が無限に増え続け、内側の対立(葛藤)も同時に増え続けていきます。
冒頭の例でお伝えすると
「有機野菜や無添加の食材が、身体に一番いい」
「農薬や添加物が多い食材は、身体を蝕んでいく」
光と影は真逆の性質を持っているものだから、普段は交わることはありません。
通常、自分の中にある光と影は分離したまま、対立したままです。
それが、自分自身を苦しめ続け、他者を裁くこととなります。
このように、現代社会に生きる私たちは、自動的に光と影が増えてしまう環境で生活しているのです。
実際、私は仕事柄、大勢の方と日々接しますが、
「極度なストレスを抱えてもがいている人」「精神的に行き詰っている人」は、
どんどん増えているのを目の当たりにしています。
このような情報過多の時代に生きている私たちにとって、大切なことは何だと思いますか?
インターネットなどの情報を一切遮断する、という選択もあるでしょうが、私には現実的とは思えません。
むしろ、この時代を受け入れながらも、今後さらに知識(情報)が増えていっても、
「内部に光と影を生み出さないようにする」ことなのではないでしょうか?
そうしないと、どんどん人間が壊れていく気がしてなりません。
「知識(情報)が増えていっても、内部に光と影を生み出さないようにする」
具体的にどのようにすればいいでしょうか?
その第一歩を申しますと、
「物事の本質、光と影を深く洞察すること」なのです。
価値観が生み出した光(の価値観)と影(の価値観)が表面的にしか見えない時は、
全く違うものにしか見えないでしょう。
光と影、どちらかの側にたって、どちらかの側を否定するしかないのです。
しかし、深く深く自分や世界を根気強く洞察していくと、光も影も実は同じだと理解できる時がきます。
光は影を作り出しているし、影は光を支えている
光と影がコインの裏表である、その構図が明らかになっていくのです。
日本でもほんの数十年前まで、自然食という言葉もないほど、無農薬・無添加が当たり前でした。
ここ数十年の間で、農薬や添加物が使用されたり、ジャンクフードと呼ばれるものが登場したことで、「自然食」というものが誕生したのです。
つまり、ジャンクフードがなければ、自然食も存在しないのです。
仮に、NRTワークショップの中で、
「添加物の多い食事は摂りたくない」という価値観をワークで扱う人ががいたとしたら、そこをじっくりと洞察していきます。
自分の中で、その価値観と対立する価値観は何なのか?
その価値観を支えている別の価値観があるとしたら、何なのか?
このようにじっくり深めていくと、本質的なことが観えてきます。
自身の核心に迫りながら、洞察を深めていくことで、
自分の内側で何が起こっていたのか?
なぜ、光と影に分けるのか? など、カラクリが観えてきます。
そこで、光と影がどんどん薄れてきます。
光と影が薄れて、価値判断なく物事を観れる状態が、NRTが提唱するピュリティで、純粋なエネルギーを発揮出来る状態です。
そして、人間の内部にある光と影の対立が終わり、内的な平和が訪れるのです。
この状態でいる時間が長くなれば、どれほど多くの情報を目にしたとしても、表面上の情報に右往左往することも少なくなっていきます。
その時に、「物事の本質やありのままの姿を観るということはどういうことなのか」、このことに気づくでしょう。
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価値観が安全安心欲求と結びつくと2014.01.31 Friday
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人間はピュリティ(純粋)な状態で生まれてきます。
赤ちゃんが純粋ってことでは、誰もが分かることの一つですね。
人間は何も知らないうちは純粋無垢でいられますが、成長していく過程で、色々なことを学んでいきます。
まず、自分以外の存在があることを学んでいきますね。
他人が存在することで、比較が起こります。
「あの子の方が運動が得意だ」
「あの子の方が友だちが多い」
価値判断なく、単なる事実として捉えられるといいのですが、大抵はそこに「優劣」を加えてしまいます。
あの子は運動が得意 → 僕は苦手 → 僕は劣っている、というように。
優劣(できる・できない)が生存本能(安全安心欲求)とつながった時に、苦しみが生まれます。
あることに対して優位であることは安全だし、劣位であることは不安となるからです。
例えば、小さなときに家が貧乏だったせいで惨めな思いをして、大人になって過剰なほどお金に執着している人がいたとしましょう。
貧乏であっても、幸せな子供時代を過ごしたという人もたくさんいますが、その人の場合はお金が無かったために、やりたいことができなかったり、家庭内での言い争いが絶えなかったとします。
お金が無いということの惨めさを、子供時代にさんざん味わったのですね。
このように生きると、どうなるでしょう。
「お金がなければ、生きていけない。幸せになれない」
そう信じるようになる方が自然でしょう。
お金が安全安心欲求と結びついてしまいます。
お金を稼ぐことが何よりも大切なことになるかもしれません。
さらに、お金がない貧乏人(=かつての自分)を憎み、生きる価値がないとみなすこともあるでしょう。
ここでお考えいただきたいのですが、
このような人は、人が羨むほどのお金を稼ぐことで、安全安心欲求が満たされるでしょうか。
一時的には満たされるかもしれませんが、ほとんどの場合、お金が大事という価値観そのものが手放せるわけではないのです。
足りないと感じている物を満たすことでは、根本的な課題を解決できないのです。
これはについては、優秀であることが、さらに自分を苦しめるで、私の体験談を通して解説しています。
私は他人と比べて無能だと落ち込んで、優秀であることが大切な価値観になったのでしたね。
そこで、優秀性を追求して、周りからの評価は高まりましたが、「優秀でありたい」という極端な価値観がゆるむことは無かったのでしたね。
話を戻します。
お金に関する欠乏感から、「お金が全て」などという極端な価値観を持ってしまった場合、おそらく、たとえ何億稼いでも、心から安心を感じることはないと思います。
安全を感じられないから、もっともっとお金を追求する生き方をせざるを得ないでしょう。
その人にとっての人生における課題は、お金の有無ではありません。
「お金がなければ生きていけない、幸せになれない」と、
幼い頃の体験が創りだした価値観を、盲目的に真実だと思い込んでいることの方にあります。
その価値観と安全安心欲求が繋がってしまい、極端な基準でしか生きていけなくなったことが、課題ではないでしょうか。
ここでは、極端にお金を重要視する人の例を出しました。
人によって価値観や基準は違えども、同じように盲目的に信じてしまっていることがいくつかあるかと思います。
生きていく上で、自分が重要と信じている価値観や価値基準―
本当にそれらが安全安心をもたらしてきたのか?
幸せや豊かさに繋がっているのか?
これらを深く洞察することは、
「根本的な問題解決」や「矛盾のない幸せ実現」につながる可能性を秘めています。
ただし、「自分が重要と信じている価値観や価値基準」は、ほとんど無意識的(盲目的)になってしまっていて、簡単に気づけるものではないのも事実です。
無意識は、驚くほど巧妙にこれらを隠しているのです。
文字通り、「驚くほど巧妙に」です…
だからこそ、それらを探求するためには、
「気づきの力が最大化される場」
「無意識の邪魔が入らないような場」
が必要なのです。
調和の取れたチームワークも不可欠です。
このプロセス(価値観や価値基準を洞察するプロセス)には繊細さと根気強さが必要で、
一人で成し遂げられるほど簡単なことではないからです。
莫大なエネルギーを必要とするプロセスですが、その労力に見合う程度ではなく、遥かに超える価値があるということも付け加えておきます。
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願望実現しやすい生き方2014.01.07 Tuesday
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新年あけましておめでとうございます。
本年も宜しくお願いします。
さて新年ということで、今年の目標、願望を思い描いた人も多いのではないでしょうか。
今回は、その辺りから入っていきましょう。
私は長年「願いがかなうNLPセミナー」という名のセミナーを開催してきました。
NLP(神経言語プログラミング)の中で、願望実現に特化した手法を厳選して、このセミナーではお伝えしています。
NLPは別名、脳の取扱説明書と呼ばれるものなので、その手法を用いることはとても効果的ではあります。私の著書「願いがかなうNLP」でもお伝えしていますので、ご興味ある方は、ぜひご一読ください。
NLPを用いた手法は効果的です。
ただ同じ手法を使っても、願望実現しやすい方とそうでない方とに分かれます。
その違いはどこにあるのか―
長年、願望実現に携わってきた私の観点からお伝えさせていただきますと―
「その人が身にまとっているエネルギーによる」と考えています。
高いエネルギーが滞りなく流れてるときは、NLPを使わなくとも、望む現実を引き寄せやすいのです。
さらにNLPのような手法を用いると効果絶大となります。
鬼(エネルギーが高い存在)に、金棒(NLPなどの道具)ですね。
逆に、低いエネルギー状態だと、引き寄せる力も弱いのです。
この場合、NLPのような道具(金棒)があっても、肝心な存在そのものが弱いので、願望実現力も制限されます。
では、エネルギー状態の高い低いを分ける根本的なものは何か?
このNRTクリエイティブコラムでも「ピュリティ(生まれ持った気質・性質・才能)」という状態をご紹介していますが、このことと関係しています。
以前、「ピュリティ(生まれ持った気質・性質・才能)」に沿った生き方をご紹介したことがあるかと思います。
ピュリティに沿った生き方とは、ライオンはライオン、ウサギはウサギであるかのごとく、生まれ持った気質や性質を活かした生き方と言い換えられるでしょう。
フィギュアスケート選手の浅田真央さんの演技を見ていると、
まさに生まれ持った気質・性質・才能がスケーティングに現れているのが感じられます。
真央ちゃんらしさが滲み出ているというか。
私はフィギュアスケートのことは詳しくないですが、
銀盤を滑ることへの喜びにあふれ、心に響くものを感じます。
また以前、友人に誘われてピアニストの辻井伸行さんのコンサートに行ったことがありますが、
彼にも同じものを感じました。
辻井さんのことは殆ど知らなかったし、ピアノのことも無知なのですが、
彼の奏でる音には心から感動したのです。
純粋な喜びそのもので演奏しているのが伝わってきました。
これも、ピュリティから発せられるエネルギーだと感じられました。
評価のためではなく、ただ純粋に楽しんでいるというか。
お二人とも独特な存在だと感じられます。
生まれ持った気質・性質・才能がにじみ出ています。
論理的に証明するのは難しいのですが、
高いエネルギーはこのような時に流れていると思えてならないのです。
彼らは誰が見ても才能豊かに映るでしょうが、
程度の差こそあれ誰しもが同じように、生まれ持った才能や気質が備わっています。
ただし、生まれ持った才能や気質を活かしたまま成長するのは稀で、
成長する過程の中で、真逆の道を歩く人が多いとも感じています。
「自分が本来やりたいこと」よりも、「親や世間からの期待に応えること」が重要と思うようになってしまうからです。
もともとの気質や才能ではないところを伸ばさなければいけないのですから、
血がにじむような努力をしても、元々気質・才能が備わっている人には及びません。
生まれ持った才能を活かす人は、その才能を伸ばすのに、さほどのエネルギーを費やさなくてすみます。
溢れ出すエネルギーは、それを活かすことに使えます。
逆の場合は、人並みのレベルにに持っていくまでに相当のエネルギーが必要です。
また、その才能を一定レベルに保つのにも多くのエネルギーが必要となり、
それを活かして活動するというところまではなかなか進めないことも多いのではないかと思います。
前者は「エネルギーを仕事などに活かしている状態」で
後者は「習得することにエネルギーを消耗している状態」です。
私の例をあげてみます。
前職の経営コンサルタント会社では、自分には乏しい能力を求められましたので、
相当な努力したにも関わらず、周りから認められるレベルには達しませんでした。
能力が無いので、それを埋めるべく必死に勉強しました。
たくさんの知識を身につけましたが、ほとんど勉強していない才能豊かな同僚に遠く及びませんでした。
そこで、さらにその差を縮めるべく勉強しましたが、なかなか身につかない。
そこで、勉強法や能力開発法まで含めて、さらに広い範囲で補おうとしましたが、
気づくと、勉強のための勉強になっていて、それらの知識や能力を活かして貢献するというところまではいかなかったのです。
一方、才能豊かな同僚は、あまり勉強する必要がなく、時間の大半を仕事での才能の発揮に使っていたのです。
才能を発揮しつつ、現場でさらに才能を発揮するにはどうすればいいのかを
体験を通して実地で学んでいったのです。
その結果、独自の理論考え方をどんどん生み出していったのです。
彼にとっては、勉強は最小限の常識を確認する程度だったのです。
これが「エネルギーを仕事などに活かしている状態」と
「習得することにエネルギーを消耗している状態」の違いです。
だからといって、苦手なことを克服することは無駄だと言いたいのではありません。
それはそれで、様々なことを学べる大切な機会であることも知っていますから。
ただし、願望実現という観点から見ると、こうです。
「出来ないこと、苦手なことを出来るようになりたい」と願うよりも
「自分の気質・性質・才能を最大限に活かしたい」と願う方が、
はるかにスピーディーに叶いやすいのです。
私は現在研修・セミナー講師の仕事の仕事を行っています。
このNRTに関するワークショップや能力開発に関するセミナー等です。
ただ、向いていないことは一つも行っていないのです。
自分の気質・性質・才能に合っていることだけを行っています。
プレゼンテーションのトレーニングなどは受けていませんし、
世の中にはすごい人がいることは分かりますが、
評価の高い研修講師を参考にすることもありません。
それでも好評を博し、
多くの方に私のセミナーを受講いただけるようになりました。
最大の要因は、自分の気質・性質・才能(ピュリティ)に沿った生き方へと進んだからだと思います。
不思議なことですがこのように気質・性質・才能(ピュリティ)とともに生きる時、大きな流れ、自分を超えた巨大な意思とともに生きているのを感じるのです。
単に自分のエネルギーだけを使っているというのではなく、自分を超えた莫大なエネルギーが自分を通して、流れていっているように感じるのです。
ここに書いたことは実証するのが難しいことの一つですが、私が身を持って体験し実感していることなのです。
このことを言葉で説明できるかどうかは別として、多くの人に体験してもらいたいと思わずにはいられません…
これ以上に豊かさを感じられるような生き方があるとは思えないからです。
生まれ持った気質・性質・才能(ピュリティ)に沿った生き方は、
願望実現という観点でも最高の方法だと感じています。
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出来事の良い悪いは、コインの裏表のよう2013.12.27 Friday
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2013年も終わりに近づいてきました。
みなさまにとって、どんな1年でしたでしょうか?
とても充実した1年を過ごせたという人もいるでしょう。
また、なかなか思うように行かなかった、ツイてない1年だったと振り返る人もいるかもしれません。
しかし、この1年で起きた全ての出来事に対して、良い悪いは分からないものです。
中国の故事に、「塞翁が馬」という話がありますね。
「塞翁が馬」
国境の近くにあった塞(とりで)の近くに住んでいた翁(老人)は、何よりも自分の馬をかわいがっていた。
その馬は、周りからも評判が立つほどの駿馬だったが、ある日突然、蜂に刺された拍子に飛び出してしまう。
一向に帰ってこない馬の様子に、周りからは翁に同情するほどだったが、翁は「これがきっかけで何かいいことが起こるかも知れない」とだけ言って、我慢強く待ち続けた。
すると、どうだろうか。しばらくして、その馬が別の白い馬を連れ帰ってきたのだ。
しかも、その白馬も負けず劣らずの優駿で、周りの者は口々に何と幸運なことかと囃し立てたが、翁は「これがきっかけで、別の悪いことが起こるかもしれない」と自分を戒め、決して喜ばなかった。
それから、かわいがっていた息子がその白馬から落ちて、片足を挫いてしまった。
周りはまた同じように慰めの言葉を掛けたが、翁はまた同様に「いいことの前兆かも知れない」と告げる。
それからしばらくして、隣国との戦争が勃発した。若い男は皆、戦争に駆り出されて戦死した。
しかし息子は怪我していたため、徴兵されず命拾いした。そして、戦争も終わり、翁は息子たちと一緒に末永く幸せに暮らしたという。
(引用元:Wikipedia)
このお話に出てくる翁はなぜ、一見悪い出来事が起こっても、「いいことの前兆かも」と言い、良い出来事には「別の悪いことが起こるかも」と言ったのでしょうか?
おそらく、深く広い認識力を持ってるからだと思います。
認識力があれば、10手先まで観ることができるので、目先の出来事に対する「良い・悪い」を超えていくことが出来るのです。
NRTワークショップでは、このような深い認識力を高めることを、目的の一つとしています。
こういうトレーニングを続けていくと、光と影とが、コインの裏表にすぎないということも分かってくるのです。
人生で起こる様々な出来事に対して、コインは常にひっくり返ると感じていれば、「浮かれすぎること」も、「悲嘆にくれすぎること」も減っていきます。
ただ、これは「光と影はコインの裏表」「コインは常にひっくり返る」などという観念(価値観)を持つということではありません。
これらの観念(フィルター)をかぶせて、起きてくる出来事を見ることとは違います。
観念をはずして起きてくる現象を観察した結果、大自然の根本原理が分かるようになるため、「光と影はコインの裏表」「コインは常にひっくり返る」とただ感じられるようになるのです。
だから、自然と「浮かれすぎること」も、「悲嘆にくれすぎること」も減ってきます。
それは、ありのままに世界を見通すことができるようになるから、恐れも不安も減ってくるということなのです。
このコラムでも繰り返し申し上げていたように、
「良いものの見方を身に着ける(=良いフレームを通して世界を見る)」ということと、
「あらゆるフレーム(観念)をはずしてありのままに世界を見ること」は違います。
つまりは、NRTワークショップが提供することは、「新しい良いものの見方(フレーム)」ではなく、「すべてのフレームをはずす存在になること」ということになるのです。
さて、今回「塞翁が馬」の喩え話を書いていて、ビジネスという観点で思い出したことがあります。
かつて、私の知り合いの会社経営者が、大成功者に共通している点は何度か事業で失敗していると言っていました。
著書「金持ち父さん貧乏父さん」で有名なロバートキヨサキ氏も同じようなことを言っています。
成功している経営者は何度か会社を潰していると。
倒産した経験があるからこそ、逆に潰れない会社、利益が上がる会社が分かるというものです。
酸いも甘いも噛み分けた大物の経営者というのは実際、少々の事では動じないと言われています。
先の先が見えている(深く理解できてる)からです。
また、認識力を高めると、会社が誕生して隆盛を極め、衰退していく避けられない大自然のプロセスがわかるようになります。
そして、認識力が高まると良い悪いを作り出す価値判断がゆるんでくるため、このプロセスをただニュートラルに受け入れやすくなります。
それにより、愛着や執着を超えて、流れる水流に乗るがごとく柔軟に変化していけるのです。
このように起こってくる出来事を深く観察できるようになると、影だと思っていたものが光であり、光だと思っていたものが影のように感じられるようになるのです。
2013年も残りわずかとなりました。
このコラムを読まれる皆様も、悲喜こもごもな出来事を体験してこられたと推察いたします。
しかし、どんなに困難に感じられる出来事が起こったとしても、広く深く洞察する認識力があるなら、多くの人が影と感じているような出来事すらも、自然と大切な恵みのように感じられるのです。
何度も言うようですが、それは、影の中に良い意義を探すということではないのです。
認識力が高い人は多くの人が影だと感じていることも、自然とそこに大切な理(ことわり)を感じ取るのです。
そういう意味で、深く広い認識力を育んでいくことこそが、問題を解決し、絶対的な豊かさを手に入れる最大の鍵となるのです。
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葛藤を体験しないと、何かを理解することはできない2013.12.12 Thursday
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前回、30代にNLPトレーナーとして軌道に乗ったにも関わらず、とても窮屈な人間となってしまった体験をお伝えしましたね。
その当時、NLPトレーナーとして評価が上がり、「優秀さ」を感じる機会が増えると、学生時代に作り出された根深い「無能な自分(影)」を消し去ることが出来ると信じていたのですが。
まさに真逆なことが起こり、「無能な自分」の存在が、ますます大きくなってきたのです。
その時に、影を消し去るのではなく、影を理解する方向にようやく進んでいった訳ですが。
前回のコラムはかなりの反響がありましたので、今回もこのテーマでお話を進めますね。
前回もお伝えしましたが、
理想の方向(優秀な自分)に邁進して、それを実現しても、それは「ダメな自分」を隠すことにしかならず、真の問題解決にはならないと痛感しました。
そこで、自分は無能だ−そのことを真に理解する方向へと、舵を切ったのです。
そうは言っても内心では、自分の無能さを思い出していくと、本当に「ダメ」になってしまうのでは・・・そんな恐れもありましたが。
しかし、それを思い出して、十二分に体験することにより深く理解していくと、まさに逆のことが起こりました。
「自分は無能だ」というのは、ただの思いこみであり、イメージに囚われてたと身体で実感したのです。
それと同時に、「自分は優秀だ」というイメージに囚われてたことにも深く気づけたのです。
そして、「無能さ」も「優秀さ」も手放せることが出来たのです。
つまり光から影まで同時に終わらせることができました。
現在も、トレーナーとして優秀だと言っていただけることがあります。
ただし、もうそのことを重要視していません。
重要視する気持ちが湧いてこないと言ったらいいでしょうか。
「優秀な自分」というイメージに囚われなくなった結果、ただ「優秀な自分」で在るだけです。
これこそが、本当の問題解決なんだと気づくことができた貴重な体験でした。
ならば、最初から理想を求めずに、無能な自分を受けれれば良かったんじゃないか
そう思われた方もいるかもしれません。
しかし、人間は「理想(光)」だけ、「無能(影)」だけ、といった片方では、理解できないようになっているのです。
この世のものは全て、光と影とで構成されています。
目に見える世界、そして人間そのものについてもそうですが、このことを真に理解するためには、自分がまず、光と影とで構成されていることを理解しなければなりません。
そして、光と影が織りなすことで創りだされるものこそが、葛藤です。
言い換えると、人間や世界の本質は、光と影の葛藤そのものとも言えます。
だからこそ葛藤を体験し、それを乗り越えるプロセスなしに、人間を理解することはできません。
逆にいうと、人間を理解するには、様々な体験の中で自分自身の中に光と影とを構成しなければならなのです。
私も理解するまでは随分苦しみましたが、「無能な自分」と「優秀な自分」、その葛藤があったからこそ、人間を深く理解する機会に恵まれました。
葛藤という体験を通して、「人間というものの根本的理解」「世界というものの成り立ち」など、様々なことを学べました。
私がNRTをお伝えすることが出来るのは、葛藤を充分体験して、根本的に乗り越える方法を幾分かでも理解できたからなのです。
もし、コラムをお読み下さってるあなたが何かに葛藤を抱えていたとしても、目を逸らさないで頂きたいのです。
かつての私は、優秀な自分であり続けることで、自分の無能さとの闘いを避けようとしてました。
このように、何とか葛藤を避ける方向に進む人は多いのですが、どうか踏みとどまって、自分の影を深く理解するという方向に進んで頂きたいのです。
葛藤を深く体験しないと、それを超えた境地にもたどりつけません。
そこを超えたときに、肩のチカラが抜けていくのを感じるでしょう。
そして、自分にとってなぜ葛藤が必要だったのか、深い理解が得られると思います。
だからこそ、葛藤そのものに絶対的な価値があることを、知っていただきたいのです。
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優秀であることが、さらに自分を苦しめる2013.11.29 Friday
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NRTに関する著書「人生の秘密」でもご紹介しましたが、私は以前「勉強ができない(無能、頭が悪い)」とコンプレックスを抱えていました。
このブログや「人生の秘密」などでもご紹介しているかと思いますが、多くの場合、人間は欠乏感(空虚感)から願望(理想)を持つにいたります。
例えば、強く異性にモテたいと思う人はモテていないと思っている人でしょう。
この際に、実際に自分がモテているかどうかは関係ないのです。
実際には多くの人にモテていても、「モテていない」と思い込んでいる人が「モテたい」と切望することになります。
また、仮に異性にモテていなくても、モテるかどうかが重要ではない人は、モテないことを気にすることはないし、モテたいとは思わないのです。
このように、あなたが大切だと思っているものをあなたが持っていない、あるいは備わっていないと思っていて、その状態が受け入れられない場合、持っていないものを強く欲することになります。
多くの場合、このようにして願望(理想)が生まれているのです。
さて、私は高校時代まで、さほど成績優秀ではなく、そういう自分を受け入れられず、コンプレックスを持っていました。
「無能感(自己無価値感)」が大きかったということです。
その結果、「優秀になること」がとても大切なことになりました。
そこで、優秀と思ってもらえるような大学に入ることが理想となり、猛勉強を始めました。
大学受験までの二年間、異常なほどの執着心とモチベーションで机に向かったのです。
1.5だった視力が、0.05にまで落ちました。
自分でも驚くくらいやる気に満ちていました。
しかし、そこまでして勉強に励んだにも関わらず、志望大学に合格できませんでした。
高い理想を持ち、その理想実現を夢見て頑張っていたので、志望大学に落ちた時に、大きな喪失感を感じました。
しばらく立ち直れなかったほどです。
期待が大きかったからこそ、落胆も大きかったのです。
結果として、さらに「無能感(自己無価値感)」が大きくなりました。
そこそこの大学には合格できたものの、高い理想(高い価値基準)を持ったため、その程度の大学に通う自分を受け入れられなかったからです。
このように、自分に課する基準が高すぎると、自分自身を受け入れられなくなるのです。
私は自分自身を受け入れられず、今度は就職活動で挽回しようとしたのです。
今度こそ「無能感(自己無価値感)」を払拭したいと思ったのです。
そこで、経営コンサルタント会社を志望することにしました。
経営コンサルタントとして、ビジネスの第一線で活躍している自分を思い描いた時に、わかりりやすく自分の「無能感(自己無価値感)」を払拭できると思っていたのだと、今なら解ります。
しかし、その当時はそのような動機でコンサルタントを目指していたとはつゆほども思っていませんでした。
当時は心底、その仕事がしたいと実感していたのです。
しかし、20年近い年月が経って、NRTなどを通じて、無意識(潜在意識)や深層心理を深く理解していった結果、
「コンサルティングの仕事を心からしたい」と思っていたわけではなかった、ということに気づいたのです。
実際には私の大学や職業の志望動機やそれを目指す高いモティベーション(やる気)は、「無能感(自己無価値感)」の裏返しだったのです。
就職活動では、希望の会社に入社できました。
今度は、願望を実現したのです。
内定をもらった時は、ものすごく喜びました。
しかし、その喜びは長くは続にきませんでした。
コンサルタント会社は非常に優秀な方が多く、特に中途採用の方は前職のスター社員だったのですね。
入社地点でマーケティングやマネジメントに長けていました。
優秀な方ばかりに囲まれると、自分が一番劣っているように思えてなりませんでした。
周りにいる優秀な人達と比較して、自分が惨めに感じられました。
セルフイメージが下がり、仕事にもミスが目立ち始めました。
この状態を打破するために、様々な資格を取ることにしたのです。
仕事の合間でスクールに通い、一生懸命勉強し、年間何百冊の本を読もうと頑張りました。
もともと走るのが遅い人間が陸上部にはいって努力しても、試合で勝てるレベルには到底いかないように、そもそもコンサルティングに不向きな私が血のにじむような努力をしても、成果が出ませんでした。
努力しても全然芽が出ない自分に絶望し、無能感を味わい続けました。
再び「無能感(自己無価値感)」に立ち返ったわけです。
さらに、自分を何とか変えたいと思い、色々なセミナーやワークショップに通い始めました。
今、トレーナーとして活動しているNLP(神経言語プログラミング)を学んだのもその頃です。
NLPの素晴らしさを体感した私は、これを伝える仕事をしたいと思い、色々な事情も重なって、NLPトレーナーとして独立することになりました。
研修講師やトレーナーといった、人に何かをお伝えする仕事は自分の性にあってたようで、順調に業績を伸ばし続けました。
今度は、挫折を味わわなくて済んだのです。
それどころか、コンサルタント会社時代の無能な自分から一転して、周りからも「優秀だ」と賞賛されるようになりました。
これでようやく無能な自分を返上できる、苦しみから解放される、と一息つきたいところでしたが・・・
実際には逆でした。
思いもかけない形で、無能な自分を味わい続けるハメになり、苦しみもますます増してきたのです・・・。
研修やセミナーの評判は上がる一方でしたが・・・、やっと手に入れた「優秀な自分」であり続けるために、さらなる理想に向けて進み続けました。
名声が上がれば上がるほど、私自身の有能であるという基準も上がり続けました。
企業研修などで、最初は5段階で4くらいの評価でも十分に満足できていました。
しかし、4、5の評価をいただけるようになると、それが当たり前になり、4の評価では惨めな気持ちになってしまうようになるのです。
私の中で優秀であるという基準が上がり続けた結果、より完璧であることを目指すようになり、ちょっとした失敗も受け入れられなくなっていったのです。
いつしか、企業研修の評価が4、5ポイントでも、がっかりするようになってしまいました。
それよりも、さらに自分を苦しめたのは・・・周りの人たちの姿でした。
以前の自分のようにミスを連発する人に対して、共感するどころか、嫌悪感を覚えるようになりました。
それだけではありません。
自分より秀でたものを持っている人を見ると、むき出しのライバル心が出てくるようになったのです。
私は「無能感(影)」が強かったから、その真逆の「優秀さ」が理想(光)となりました。
「優秀さ(光)」は強くなればなるほど、それが大切な価値観となり、それが大切になればなるほど、その真逆の「無能な自分や仕事ができない人など」がさらに受け入れられなくなっていったのです。
「優秀でなければならない」という価値観を被せて外の世界を見た時に、部下のちょっとしたミスや言動にすら、ネガティブに反応するようになってしまったのです。
優秀であることが大事になり過ぎていたのです。
光の自分と影の自分・・・・私は内側で分離していったのです。
そのとき、静かに体感しました。
「人間はこうして精神が引き裂かれていくんだ」と。
ようやく気づきました。
これはおかしい、と。
理想(光)が高くなることによって、自分を受け入れられなくなるだけでなく、優秀な人に嫉妬し、ミスをする人などに嫌悪感を抱くようになり、気づけばとても窮屈な人間になってしまっていたのです。
自分も受け入れれないし、他人も受け入れられない・・・
光(理想)の実現が自分の影(無能感)の克服につながるの信じていたので、とことん光(理想)を追求しましたが、
かえって影が濃くなり苦しみが増していったのです。
どうにもならないくらいに影が濃くなった時に、理想の自分、光を実現することではなく、そもそも光(理想)を作り出した影(無能感)を解放しないと幸せにはなれないと実感したのです。
光を目指すということは影の反対側に進むこと、それではけっして影を解放することはできないのです。
影は、影を理解することによってのみ終わらせることができる。
それに気づいた時に、勇気を出して、影の方へ戻ることを決意したのです。
冒頭で、是が非でも優秀と言われる大学に入りたかった、過去の体験をお伝えしましたが、私は「自分は無能だ」と思い込んでいたのですね。
それが、そもそもの始まりでしたね。
しかし、私は果たして本当に無能だったのでしょうか?
本当にそうなら、NLPを通して脳の仕組みや深層心理、今お伝えしているNRTみたいなことを教えることなど出来ないでしょう。
ましてや、本を書くことなんて出来ません。
確かに志望校には入れませんでしたが、それと頭が悪いのとは別です。
優秀だと多くの人に評価されるようになった後でも、無意識(潜在意識)の深いレベルに、「自分は馬鹿だ」という観念が深く刻み込まれていることに気づき、この観念をゆるめることができました。
「自分は馬鹿だという観念(影)」がゆるんだ時に、その裏柄にある「優秀でなければならない(光)」という観念もゆるみました。
自分が馬鹿(無能)なわけではない、と気づいた時に、優秀であることがさほど重要なものではなくなったのです。
光と影その両方がゆるんだときに、自分を恥じることがなくなり、ただ、自分自身でOKなのだと、まるごと自分を受け入れることができるようになったのです。
また、かつての自分、よくミスをする人をみても、反応しなくなりました。
また、優秀な人をみても、むき出しのライバル心が消え、羨望もなくりました。
以前は、すごくイヤだと思っていた人も、ありのままを観れるようになって気づいたのです。
「あぁ、みんないい人なんだなぁ」と。
私が余計なフィルターをかけて観てたから、勝手に嫌悪感を感じていただけと気づき、ラクになりました。
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感覚が世界を創りだす2013.11.13 Wednesday
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先日、とてもリアルに夢をみました。
まるで現実そのものであるかのような夢をみてたという意味ではありません。
身体は眠りつつ、意識だけが覚めている不思議な体験でした。
その中で、夢がどこから始まって、どこで終わっていくのかをアリアリとみえたのです。
まず、夢が始まる先駆けとして、ある感覚が私の中で生じてました。
「恐怖」です。
そのあと、次第に夢が作り上げられていったのです。
この体験を言葉で表現するのは難しいのですが、あえて言葉で説明してみます。
まず、夢を映画にたとえてみます。
映画は、スクリーンに映し出された光と影が織り成す映像ですね。
夢も実態のないイメージという意味では、映像に近いと考えることができます。
私が見たリアルな夢もそうでした。
まるで映画がスクリーンに映写されるように、夢が映し出される頭の中のスクリーンに、夢の内容が映し出されていったのです。
しだいに、恐怖の感覚を味わうのにふさわしいような人物と出来事が表れてきたのです。
最初はボヤけた映像でしたが、しだいにクリアで精密な映像に変わっていきました。
そしてまるで3D 映画のような、本物そっくりに感じられる、リアルに見える夢の世界が作り上げられていったのです。
驚くべきことに、その世界は、最初にあった恐怖の感覚を味わうのにふさわしいものだったのです。
意識だけは冷めてる状態でしたが、身体はしばらく恐怖の感覚を味わっていました。
ある程度、その恐怖を味わい体験できたところで、その世界が再びボヤけはじめ、夢のスクリーンが無機質になって消えていったのです。
そして、目が覚めたのです。
この体験を経て、実感したことがあります。
これまでは、夢の中に登場する出来事が先にあり、その後で、現実と同じようにそれに反応して恐怖や怒りを感じるものだと考えてました。
しかし先日見た夢では、先に身体で感じる感覚が生じて、その後に夢が創りあげられていった、そのプロセスをまざまざと見たのです。
実際には現実世界も同じようなものではないか・・・そう私には感じられたのでした。
通常では、外側の出来事に反応した後に、例えば恐怖や怒りなどのの感覚が現れてくると考えられてますね。
実際には、自分の中で蓄積されてきた恐怖などのエネルギーが発生した後で、それに呼応するように恐怖などの出来事が引き寄せられるのだと、体感したのです。
もし感覚がとても敏感だったら、出来事が起こる前に、感覚が先に起こっているのを察知することができます。
ただ私たちは麻痺に麻痺を重ねているので、出来事が起こる前に、蓄積された怒りや悲しみといったネガティブな感情に気づくことはできないのです。
では、どうして怒りや悲しみといったネガティブな感情は蓄積されていくのでしょう。
例えば、すごくムシャクシャすることってありますよね。
その時、現れてきた感情をすぐに味わい尽くせば、本来ならすぐに高質なエネルギーに昇華していくのです。
(※上記のことに関しての詳細は拙書「人生の秘密」にございます)
しかし、ほとんどの場合はその状態をとても不快に感じるので、”気晴らし”と称して、その感覚から逸らす行為をおこなってしまいます。
タバコに火をつけたり、お酒を飲むのもそうですね。
或いは、漫画を読みふけったり、映画を観に行ったりしながら、嫌な出来事や嫌な感覚から焦点を変えようとします。
こうやって、感覚を麻痺させていきます。
そういう点では、寝る間を惜しんで働き続けるワーカホリックも、浴びるようにお酒を飲むことも、全く同じ構造であることが多いのです。
一時的に気を逸らすことは出来ても、味わいつくせなかった怒りや恐怖は、潜在意識の中に蓄積されていきます。
常に、怒りのエネルギーと共にあるにも関わらず、それに気づけてない人は、どうなるでしょうか?
自分自身の怒りの感情を引き出すような出来事が、あちこちで起こるようになります。
不愉快な出来事や人物がいるから、自分は怒らされていると思い込んでいるのですが。
真実は逆で、解消されてない怒りのエネルギーが先に存在して、それにふさわしい世界が創りだされる方が本当だと分かるようになってきました。
これに関しては、私だけが体感しているのではありません。
昔から賢者(聖者)と呼ばれている方々も同じことを言ってるのですが、NRTワークショップの受講生も、同じことを体感した経験を話してくれます。
これは、科学的に実証できることかどうかは別として、そうなんだと私は感じています。
怒りを味わいつくした時に、自分を怒らせるような人たちが急に優しくなるという出来事が、受講生からの体験でもたくさん聴いているのです。
どうして、私やNRTワークショップの受講生が、賢者が言うようなことを体感できるようになったかというと、コレに尽きるでしょう。
「理解力が高まってきたから」です。
理解力が高まると、現象の裏側にあるものが、理屈を超えて体感できることが増えていくのです。
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