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記憶を土台にした理解だけでは限界がある2013.07.26 Friday
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前回、理解力についてお伝えしました。
これからしばらく、「理解力」について様々な角度で語っていきますので、コラムを読んで頂く中で、ご自身で感じ取って頂ければと思っております。
さて「理解するとは何か?」と問われたとしましょう。
普段はあまり意識せずに、「理解」という言葉を使っていると思います。
手慣れた言葉こそ、改めてその意味を考えてみるのも面白いかもしれませんね。
通常は、思考や言語を介して「これはこういうことだ」「分かった!」と実感することを指すでしょう。
記憶という膨大なデータベースを動かしながら、物事についての答えを導きだしていきますよね。
私たちは学校の中で、公式や漢字、歴史など様々なことを教わり、頭に叩き込みます。
「Aとは何か?」
無数の記憶を土台としながら、「Aは◯◯である。」と答え(理解)へと導いていきます。
「A=◯◯」
学力を身につける観点では、その理解の仕方は適しています。
こうして成長していく中で、勉強以外でも、様々な体験から無数の「A=◯◯」を創りあげていくのです。
これらは、観念(価値観・信念など)となっていきます。
今までの人生の中で、さまざまな物事や出来事を対応できたのも、自分の記憶にある「A=◯◯」と照らしあわせることが出来たおかげでしょう。
ただ時として、記憶を土台にしたやり方だけでは、ありのままの現実を見誤る場合が多々あります。
例えば、友人の紹介で、初対面の人と喫茶店で向かい合っているとしましょう。
相手は終始うつむき加減で、目線はテーブルに落としたまま、あなたを決して見ようとしません。
その時、目の前の人に対して、どんな印象を持つでしょうか。
「あぁ、この人は内気なんだろうなぁ。」
「人としゃべるのが苦手なんだろうなぁ。」
もし、そういう印象を持ったとしたなら、今までのあなたの人生の中では、内気な人はうつむきがちだったかもしれません。
会話するのが苦痛の人との会話を、無意識的に蘇ったこともあるでしょう。
そんな風に、記憶の範囲内で相手を理解しようとするのが普通です。
仮に、今までのパターンや記憶を取り外して、まっさらな気持ちで相手を観てみたらどうなるでしょうか?
確かにテーブルから目線を離さないし、声は小さめです。
ただし、こちらの側に公式がないので、うつむきがちに気をとられないかもしれません。
むしろ話しかけたら、色々な答えが返ってくることに気づくかもしれないでしょう。
私の経験からも、相手と目を合わさず、下を向いている方が話しやすいという人も中にはいらっしゃいます。
逆に、リラックスすると、自然と伏し目がちになる人もいます。
記憶に囚われず、その人をつぶさに感じたら、全く違う印象を持つかもしれません。
「あぁ、話し好きな明るい人だなぁ」と感じることすらありえます。
しかし、一旦「この人は内気だなぁ」というフィルターをかぶせてしまうとどうでしょうか?
「うつむき加減=内気」というイメージが強いほど、印象を覆すのは難しい、もしくは時間がかかると思います。
「◯◯な仕草をする人は、◯◯な人だ」
このように、今この瞬間目の前にいる生々しい相手ではなく、自分の経験や知識という過去のフィルターを通して、相手を判断してしまうことは往々にしてあります。
理解というよりも、知識で反応しているという感じでしょうか。
要するに、コンピュータのようにプログラミングされていて、その通りの反応・判断が返ってきます。
ただし、それは無理もありません。
記憶を土台としない理解の仕方もある、そのこと自体、知る機会がありませんから。
NRTで言うところの「理解力」とは何か? と言いますと
「(思考ではなく)存在全体で理解すること」だと前回お伝えしましたが、別の言葉に言い換えると次のようになります。
・人間の中に叡智があること
・そして、相手と自分との間に壁がないから、深く理解ができる
そのことを、深く体得していただくのが、NRTワークショップです。
思考や過去の経験、知識を土台としたものではなく、一切の知識を外したときに生まれる理解があることをまず知って頂き、その上で綿密にトレーニングしていきます。
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真に「理解する」とはどういうことなのか?2013.07.04 Thursday
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つい先日、NRTオフィシャルサイトを一部、リニューアルしました。全体のデザインやメニュー構成は変更しなかったので、パッと見たところ、前との違いが分かりづらいかもしれませんが。今回、NRTとは? NRTワークショップで何を学ぶのか?など、主要なページの文面をかなり変更しました。新しくなったホームページでは、現在ワークショップでお伝えしていることをかなり反映させています。ぜひ、NRTオフィシャルサイトをご覧ください。さて、リニューアル後のホームページにて、「(NRTでいうところの)理解するとはどういうことか」についてお伝えしています。理解する − その言葉の意味は文字通りではないのか? そう思われる方もいるでしょう。しかし、NRTではさらに一歩踏み込んで、「どこで」理解するのかを大事にしています。リニューアル後のNRTオフィシャルサイトでもお伝えしているメッセージの中で、とても大切な事実を含んでいるものが多数あります。その中のひとつ「目の前で起きる出来事は全部必然であり、無駄なことは一切ない」あなたもどこかで、このフレーズを聞いて知っているのではないでしょうか?ただ、知っているのと、本当にそうだと心から実感しているのでは、理解のレベルが違うのです。単に「概念として」知っているだけでは、深く理解できていることにはなりません。あの人が言っているから、教義や教典に書いてあるからという理由で、「あぁ、このことなら理解しているよ」と言う人がいますが、「どこで」理解したことになるでしょうか?「頭」ですよね。「頭の理解」これは「言葉を通しての理解」と考えることができます。もちろん「頭(言葉)で理解すること」も必要ではありますが、それだけでは浅い「理解」に留まってしまいます。私の経験上、本当に大切なことは言葉(頭)では理解できないと感じています。そこで、NRTワークショップでは、「知る」ことではなく「深く理解する」ことを徹底しており、そのため、「講師の私が言ったから信じるという態度は保留して頂きたい」とお伝えしています。なぜ、講師である私がそんな風にお伝えするのでしょうか?これは、すでに言葉で説明できる範疇を超えていますので、言葉にすると薄っぺらくなる恐れがありますが、あえて表現すると『言葉(頭)で知るということではなく、「存在全体」で理解するような理解の仕方があり、この理解の仕方でないと理解できないことがある』からです。本当に大切なことは言葉(頭)だけでは理解できないと実感しています。NRTでお伝えする内容も、頭(言葉)だけでは十分に理解できません。そのため、感覚を鋭敏にしていくワークや、直観力を高めるワークを基礎訓練として行いつつ進めていきます。これは、「理解力」そのものを高めるためのトレーニングです。ここでいう「理解力」は言葉を超えた理解をする力のことで、これを高めることにより、直観力や創造性を開発することとなります。言語を超えた、別の理解力の回路を開くためのトレーニングと言ってもいいでしょう。「あぁ、そうなんだ」論理的な理由は分からなくても、深いところで腑に落ちる、直観でそうだと分かる理解が徐々にできるようになります。この言葉を超えた理解に関しては、NRTを受講した方々のインタビューに、受講者がそれぞれの言葉で伝えていますので、是非ご覧くださいませ。「存在全体での理解」をあえて別の言いかたで表現するとすれば、「深い気づきの力が得られるようになる状態」に近いかもしれません。それは、賢者や聖者の言葉だから、あの人が言ってたからそれは正しいと信じるあり方とは真逆です。信じることをやめて、「存在全体での理解」ができるようになった結果として、賢者が語った言葉が真実だったと「気づく」という理解のしかたです。繰り返しになりますが、「目の前で起きる出来事は全部必然であり、無駄なことは一切ない」というフレーズ。これは、NRTだけでなく、他のセミナーでも別の表現で語られてますし、古くから語られてることの一つでしょう。しかし頭での理解だけではなく、存在全体で理解する、深い気づきの力を得ていくことで、はじめてその真相が明らかになります。それによって、人生が大きく変化していきます。
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